にぼしのひとりごと

自分の感動を、知ってもらいたい。

広島東洋カープから学ぶ。

 

こんにちは^^

にぼしです!本日ブログ2本目です^^

 

今回はにぼしが大好きな

広島東洋カープ

のお話です!

なぜ今回はこんな話をするかというと、皆さんに広島東洋カープについて知っていただきたいからです。

お話といっても現在のお話ではなく

カープの歴史についてのお話です!

それでは行きましょう^^

 

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戦後の広島

皆さんもご存じのとおり、1945年8月に広島県原子力爆弾が投下されました。

当時は「広島は70年間、草木も生えぬ」といわれていたようにその恐ろしい核爆弾の影響をもろに受けました。

終戦後、復興を目指す広島にとって一つの吉報が流れます。

「広島にプロ野球チームができる」

 

広島カープの成立

広島カープの創設に尽力したのは「石本秀一」という人物でした。

石本氏はプロ野球選手として活躍し、その後日本一を経験した監督という

申し分のない経歴の持ち主でした。

 

しかし石本氏は壮絶な経験をすることになります。

広島カープの監督の依頼を受けた石本氏は、依頼を出してきた谷川氏と対談します。

そこで言われた衝撃の言葉の数々。

 

「お金がない、選手も一人もいない」

 

これを告げられたのは、開幕の3か月前。絶望的といえるこの状況で石本氏は孤独に戦うのです。

 

当時、戦後復興に尽力していた広島には、球団のオーナーとなる企業はありませんでした。広島は市民とともに郷土色豊かに作り上げる「市民球団」を目指したのです。

球団のオーナー企業がないということは、投資してくれる人も、元手となるお金も一切ないということです。その状況から、1から広島カープを作り上げることを石本氏は担ったのです。

 

カープの意味は鯉です。

鯉は広島市を流れる太田川の象徴であり、滝をのぼることから、生命力の象徴です!

戦後から立ち上がろうとする広島にとってぴったりのネーミングでした。

 

 

開幕までの苦労、開幕からの苦労

開幕までにまず野球選手を集めなければなりませんでした。石本氏のキャリアを存分に発揮し、選手を集めるべく全国を飛び回ります。

連盟登録には50人必要なのに、29人しか集まりませんでした。

しかも集まったのは、ピークを越えたベテランと、無名の若手ばかりでした。

球団連盟に目を付けられる始末となってしまいます。

 

入団テストを受けた学生をそのまま入団させるというギリギリの体制でした。

そして並行して資金が集まることもありませんでした。

 

なんとか開幕にこぎつけたものの、本当の地獄はそこからでした。

 

そう、広島は弱小球団で、相当負けてしまっていました。

開幕から3戦目となる試合では、地元広島で勝利をあげるものの、快進撃とはいかず、その実力が露呈し始めるのです。

当時の選手はお給料も減俸され、ご飯は質素、移動手段も宿泊施設も質素という

大ブラック球団状態にさらされていました。

 

野球ができる状態ではない、その日生きていくのもやっとだったようです。

 

しばらくして広島は他球団への吸収統合を迫られました。決断を強いられる中、そこで石本氏によぎった「ある出来事」がありました。

 

「ある出来事」が変えた未来

石本氏の脳裏をよぎった出来事とは

とある少年と交わした約束でした。

 

その少年は当時9歳で、野球選手を目指していました。父親のお店をコツコツ手伝い、お小遣いを溜めて自分のグローブを買おうとしていました。

そんな少年は広島にプロ野球球団ができることを聞いて大いに喜びました。

 

石本氏はその少年とある日このようなやり取りをするのです。

少年がカープ存続の危機だと聞いたとき、自身の貯金を石本さんに渡したのです。

「この貯金はカープに入るためのもの、カープがなければ意味がない」と。

 

その額はたったの200円(現在の価値感覚とは異なりますが)。

石本氏は、カープが吸収統合の危機にさらされているときにこの出来事を思い出し、カープの吸収統合を阻止したのです。

その対策として行われたのが有名な

樽募金です。

 

吸収統合とは、実質的な消滅にと同じような意味を持っていました。勇気と未来への希望を失わなった少年の行動が今のカープのルーツになっているのです。

 

にぼしはカープ好きだけど、こんなことがあったなんて知りませんでした。この話をみてとても感動しました。それだけ戦後の広島にとって、広島カープは精神的支柱になっていたということですよね^^

 

 

市民球団」としての真髄

石本氏は「広島市民に募金を募ろう」と考えました。そこから生まれたのがカープ恒例の樽募金でした。

 

これまで市民球団として、語られるほどの功績を残していなかったカープでしたが、市民からの熱は冷めず、募金を募ることができました。後援会なども立ち上げ、市民との連携も徐々に強まりました。

いわばこれが「市民球団としての真髄」ではないでしょうか。

市民みんなで作り上げる、お金はなくてもともに頑張っていける。

 

本当に素敵です。

この話を見た時、にぼしはカープが好きでよかったと心から思いました。

 

現在へ続く「広島東洋カープ

その後弱小球団として、何年も耐え忍びました。そしてその苦労を花咲かせるかのように創設26年目にリーグ優勝を果たしました。カープ創設から関わって記事を書き続けた津田氏は、カープのリーグ優勝の記事を最後にその記者人生に幕を下ろしました。

 

カープと共にその人生を歩んできた人は多くいるのではないでしょうか。

我々のような若い世代はこのような苦労の歴史を知らない人も多いかもしれません。

 

にぼしはカープファンを名乗る以上、カープの歴史を知らなければ!と思って勉強したら、ものすごく感動して衝撃で記事を書いているわけです^^

 

現在は球団へのヘイトが飛び交うというよりも、ファン同士でいがみ合うことや文句を言い合う様子が見られます。カープファンは民度が低いとよく言われる気がします。

にぼしはそれを否定しませんし、否定できるほどえらくはありませんが、それは一部だけで、みんながそうではありませんと伝えたいです。

他球団のファンの人たちも共感してくれる人は多いと思います^^

 

にぼしはカープからたくさんの刺激と感動を与えてもらって大きくなりました!

自分のルーツの中にもカープから学んだことが多くあるのかもしれません!

 

広島東洋カープから学ぶ。

広島東洋カープの歴史のように、どうしようもないことから逃げず、あきらめずに頑張ってください。しんどい状況が続いてもいつか必ず道は開けてくると思います^^

 

今の選手たちからもたくさん勇気をもらっていますし、これからも広島東洋カープを追いかけようと思っています!

皆さんにカープを好きになってくれ!!と強要することはしませんが、広島が嫌いな人は、広島も大変だったんだな。くらいに感じてもらえればうれしいです^^

 

ファン同士でいがみ合うのは野球選手も望んでいないはずです!!

 

日本シリーズも盛り上がってきたので、皆さんで全力で応援しましょう!!!

 

最後に

皆さん、どうだったでしょうか^^

今回は広島東洋カープの歴史について紹介しました!

 

にぼしは記事を書いてて、もっとカープが好きになった気がします!

広島県が誇る市民球団広島東洋カープ」がまた私を熱くしてくれることに期待して来シーズンの開幕を待ちたいと思います^^

 

 

以上!!!